「TSUNAGU(つなぐ)とは“結ぶ”こと。働き手を探す人と仕事を探す人を結ぶ、異文化を結ぶ― かたちは違えど、私たちActiv8はより良き世界の実現のため「架け橋」となり日夜努力している方々に、心からの敬意を表します。Activ8の新しいシリーズ「TSUNAGU」は、ビジネス、教育、芸術、文化などを通じて日本と北米をつなぐ、インスピレーションあふれる人々を特集します。
第16回 タツ青木さん:ミュージシャン、映像作家、教育者
今回はアバンギャルドと伝統文化の二刀流を引っ提げシカゴで活躍するアーティスト、タツ青木さんを紹介します。東京の置屋で生まれ芸者衆に囲まれて育った青年は失恋の痛手を負って前衛ジャズや映画を学ぼうと本場シカゴを目指しました。その後、アジア人の血に目覚め、日本の伝統音楽をジャズ界に吹き込み批評家の高い評価を受けました。65歳にして念願だった太鼓道場を併設する文化センターを今年2月に開設、多額の借金も厭わず次世代の育成に挑みます。
青木さんは新東宝映画のプロデューサー星野和平さんを実父に、東京四谷荒木町の置屋「豊秋本」(後の料亭豊秋)の長男として生まれました。置屋のおかみだった祖母に3歳の頃から三味線や太鼓を叩き込まれましたが、高校時代には父の勧めでアングラ演劇集団「銀天会」(現・銀天界)に入り、兄貴と慕った御囃子(おんはやし)安二郎氏のもとで和太鼓とアングラアートを学びました。当時の銀天会には阿部公房、勅使河原宏、寺山修司などアングラ界の大物が出入りしており「その破天荒さに影響を受けた」といいます。女の子に持てたい一心でロックバンドで演奏、ジャズベースにのめり込んだり、自主映画製作に熱中したのもこの頃でした。
写真提供:豊秋本
シカゴを目指したのはあこがれの芸者さんとの失恋がきっかけ。
タツさんには10歳年上の想い人がいました。海門(かいと)さんという芸者さんで三味線の先生でした。三味線が上達したのは彼女に褒められたかったからだといいます。自分が18歳になったら結婚するものと信じていたのですが、ある日突然、彼女は台湾人の大金持ちと結婚して台湾に行ってしまいました。折しも、学生同士の抗争に巻き込まれあごの骨を折られる大けがをし、高校中退に追い込まれました。
このままでは自分の将来はない、と感じたタツさんは兄貴分の「安さん」に相談し、海外に出ようと決めました。シカゴを選んだのは好きだった前衛ジャズのメッカだったうえ、前衛映画の重鎮たちが「スクール・オブ・アート・インスティチュート・オブ・シカゴ」(シカゴ美術館附属美術大学)で教えていたためです。
アメリカのジャズ・アーティストになる!
大学で学ぶためにはまずアメリカの高校卒業資格が必要です。そこで英語クラスと合わせて高校卒業資格の取得も手伝ってくれるオハイオ大学に通うことにしました。無事に高卒の資格を得たタツさんは、シカゴで美術館附属美術大学の学生としてアメリカ生活を始めます。
初めて黒人ジャズミュージシャンたちの奏でる前衛ジャズを聴いたときの衝撃は今でも忘れられません。ナマでみる彼らの音は凄いの一言で、日本でやっているジャズがいかにマニュアル化されているかがわかったといいます。「アメリカのモダンジャズ・アーティストになる!」と、それから10年間は自分の原点だった日本の伝統音楽を封印しました。そして、雲の上の存在だったシカゴのミュージシャンたちと一緒に演奏しアルバムを制作するまでになります。
写真:シカゴの前衛ジャズ大御所、故フレッド・アンダーソンさんと
アジア人としての目覚め、自分に正直な音を
和楽器を封印した10年が過ぎたころ「自分に正直な音を出したい」という思いを強めていきます。周りを見渡すと、サンフランシスコではすでにアジア系アメリカ人たちが演奏するアジアン・アメリカン・ジャズが注目を浴びていました。思い返せば10代の頃、あこがれた矢野顕子やサディスティックミカバンドは当時から日本音楽を作品に取り込んでいたものです。兄貴分の安さんに教えてもらった太鼓道をアメリカで実践する自分が見えてきました。
アジア人として、そして戦後日本にやってきた「新一世」としてアメリカで新たな道を切り開こう。こう決めたタツさんの動きは速いものでした。シカゴで初めてアジア系ミュージシャンに焦点をあてた音楽祭「アジアン・アメリカン・ジャズ・フェスティバル」を95年に創設しました。また同じ年に太鼓奏者・吉橋英則氏が創立した「司太鼓」で若手の育成にも着手し、シカゴ最大の太鼓グループに発展させました。
写真:太鼓レガシー・コンサート、シカゴ現代美術館(MCA)(2019)
挫折の日々
情けなくて泣いた時期もありました。アートにはお金がかかります。シカゴ美術館附属美術大学で映画を教えるサラリーでは家族を養いアート活動を支えるには足りません。副業のコンサルタント業で稼いでいたのですが、日本のバブルが弾けた80年代に事業のパートナーたちがタツさんに借金を押し付け逃げ出します。子供たちにピーナッツバターとジェリーのサンドイッチしか食べさせてやれない自分が情けなくてポロポロ涙を流す日が続きました。
家を売って借金を返すしかないと思っていた矢先、不思議なことに貸していたお金が戻ってくるなど助けがやってきました。いつも、そうです。もうだめだ、と思う場面で必ず救ってくれる何かが起きます。自分の道を信じる力が「ツキ」を呼ぶのです。
独り言が成功の鍵
これからキャリアを目指す人にタツさんからのアドバイスがあります。夢を実現するには、前向きに考える「ポジティブ・シンキング(Positive Thinking)」の上を行く「絶対にできると信じること」が必要です。成功する自分を見据えると日常の言動がゴール達成のためのものに変わっていくのです。信仰に似ていますね、信じる者は救われる。
今年、約一億円をかけ次世代アーティストを育てる文化センターを完成させました。開設にあたって、周りからは「そんなの無理」、「資金はどうするんだ」という批判的な声を浴びてきました。雑音に耳を貸さず将来の実現を強く信じていると、レーダーが鋭くなり有益な情報をキャッチする能力が高まるうえ、人も集まり、運も出てきます。みなさんに特にお勧めするのは「めっちゃ独り言をいうこと」です。シャワーのなかで、さまざまなシーンを想定し「こういわれたら自分はどう言い返すか?」を考えてブツブツつぶやき続けます。どこでも独り言を言うので家族には不評ですが、効果は絶大です。