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「TSUNAGU(つなぐ)とは“結ぶ”こと。働き手を探す人と仕事を探す人を結ぶ、異文化を結ぶ― かたちは違えど、私たちActiv8はより良き世界の実現のため「架け橋」となり日夜努力している方々に、心からの敬意を表します。Activ8の新しいシリーズ「TSUNAGU」は、ビジネス、教育、芸術、文化などを通じて日本と北米をつなぐ、インスピレーションあふれる人々を特集します。

第17回 淀野 潮里さん:起業家、元米独立系プロ・バスケットボール選手

今回は米シカゴ・ブリーズ(Chicago Breeze)など米国の独立系プロ・バスケットボール界で選手として活躍した淀野潮里さん(33歳)を紹介します。日本から単身、最強国アメリカに飛び込みプロ契約を勝ち取った経験を活かし、海外を目指す若者やプロバスケ選手を支援する企業「ATO International Sports Management、LLC」を立ち上げました。「バスケ道」を追求し、日米をスポーツで結ぶ懸け橋になろうと突き進む姿はまさにスポーツアニメの主役のようです。淀野さんに成功の秘訣を聞きました。

写真:バスケへの道を開いてくれた兄と

ドリブルができなかった子供時代

バスケット・ボールとの出会いは淀野さんが小学生の頃。お兄さんの練習についていくうち「人数合わせ」のために女子チームにリクルートされました。ドリブルができず、ボールを持ってコートを走り回るためトラベリングの反則が続出、試合では「何もしなくていいからディフェンスにいて立ってなさい」と言われる始末でした。でも、年上のチームメートに可愛がられ、自分のペースでバスケを学ぶことができたのがよかったと言います。人のプレーをみて技を盗む能力を身に付け始めたのもこの頃です。

いくつかあった転機の一つは小6の時にやってきました。住んでいた茨城県の地区選抜チームの選手が1人辞退し、代わりに淀野さんが選ばれたのです。周りからはおめでとうといわれ、普通なら「ラッキー!」と飛び上がって喜ぶのですが、淀野さんは違いました。生来の負けず嫌いが顔を出し、最初の選考に落ちたのが悔しくて試合で見返してやると努力を重ね、本番では他の選手に負けない成果を出しました。「成功体験より挫折に燃える」、落ち込みからのひと頑張りが子供時代から成長を支えてきました。

写真:土浦日大高等学校時代は「見る力」を育てた

バスケで行けるところまで行く

本格的にプロを目指し始めたのは中学時代です。厳しいコーチのもとバスケに没頭するなか、茨城県の県選抜選手に選ばれます。「バスケで行けるところまで行きたい」との思いが芽生えました。進路を決める3年生のとき、入部の誘いを受けていた近所の高校に進むつもりでしたが、この人ならと思っていたコーチが辞めるかもしれないと聞いて落胆し、急遽、片道2時間かかる土浦日大高等学校のバスケ部を訪れます。淀野さんのプレーをみたコーチは「お前、見る目すごいな」と目を見張り、コートで試合の流れを読む淀野さんの才能を的確に捉えました。練習風景は厳しいなかにも笑顔があり、先輩たちのコーチへの尊敬のまなざしに「ここだ!」と直感で即決、家から遠すぎると猛反対する親を説得して無事に入学しました。高校時代のチームの成績は全国ベスト3、個人でも全国ベスト5に輝き、スター選手として鳴り物入りで筑波大学へと進みました。大学時代はU-19(19歳未満)のカテゴリーで日本代表選手に選ばれたほか、在籍した筑波大の女子バスケ部は全日本大学選手権(インカレ)で全国制覇を果たしました。

写真:日本代表に選ばれた筑波大時代

訪れた転機、実業団プロ入りの選択肢は捨て、アメリカ留学

転機は大学4年生のときにやって来ました。持病が再発しプレーができない時期が続いたのです。このまま選手としてやっていけるのかと悩むうち、卒業して実業団プロ入りという誘いは捨てて、海外でコーチングを学ぼうと決心しました。そう思ったのには理由があります。淀野さんのポジションはポイントガードです。選手に指示を出すゲームキャプテンとしてチームをまとめ引っ張っていく「コート上の監督」の立場です。自分がシュートを決めるより、ボールを運びながら選手を動かしてシュートが決まる場面を作り出すことに喜びを見出します。そんな淀野さんにとって、選手を育てるコーチングを学びたいと思うのは自然な流れだったのでしょう。ここでも再び親の猛反対に会いましたが、海外でバスケを学ぶと心を決めた淀野さんを止めることはできません。英語も話せないまま、ウエスト・バージニア大学での留学生活に飛び込みました。

留学が開いたプロへの道

大学のコートでプレーして遊んでいたときのこと。女子バスケチームのリクルートをしていたコーチの目にとまり「うちに来ない?」と誘われました。ウエスト・バージニア大学の女子バスケチームは全米大学体育協会(NCAA)のなかで最もレベルが高いDivision Iに属していて、全米各地から優秀な選手たちが集まります。練習生としてプレーし始めた最初は他の選手の身体やパワーの大きさに圧倒されましたが、そのうち「私にもできないことはない」と自信をつけました。監督からも認められ「コーチングはいつでもできる。君はプレーヤーをやるべきだ」と独立系プロリーグ入りを勧められ、夏休みに独立系プロのチームが選手発掘の目的で開く入団テスト「トライアウト」に挑戦することにしました。

写真:米国でプロデビューの夢果たす

プロ入り挑戦 アジア人だからなめられた 苦い差別の体験

最初のトライアウトはWomen’s American Basketball Association (WABA)に所属する アトランタ・エンジェルスでした。張り切って参加した3日間の合宿でしたが、なんと1日目で切られました。シュートもドリブルも一番多く決めたのに、です。黒人のコーチは最初から淀野さんと目を合わせようともしませんでした。チームにアジア人を入れるつもりは毛頭なく、出来レースだったのでしょう。理不尽だと思いましたが、その時は今と違って文句を言うことも「なぜ?」と聞くこともできませんでした。ホテルに帰り、残りの2日間は部屋で今後の作戦を練りました。

考えるうち、気付いたことがありました。日米の習慣の違いです。日本は気配りの文化、黙っていてもチームメートやコーチは自分が何を望んでいるのか、どういう状態なのかを察してくれますが、アメリカでは違います。自分からコミュニケーションを取り意思を発信する「自主性」が試されます。今までは「技をみせてなんぼ」と思っていましたが、見せるだけではだめだと気づきました。心機一転し、自分の行動を変えることにしました。そして、誰よりも一番初めにコートに入ってゲームの準備をする、そして、自分から積極的にコーチとコミュニケーションを取る、この2つを実行することに決めました。

米国のスポーツ界では人種差別が問題になりやすく、今年のNCAA女子バスケのトーナメント最終戦ではアイオワ大学の白人スター選手のハンドジェスチャーをルイジアナ州立大学の黒人選手が真似て返し、SNS上で人種差別を巡る議論を呼びました。淀野さんもおそらくアジア人としての差別は多く経験されたと思いますが、本人は飛躍のステップとなったアトランタでの出来事に触れただけで多くを語りません。どんなに苦い経験もゴール到達への飛び石とみるためでしょう。

写真:Carolina Lady Rushチーム時代

プロ選手と学生の両立

アトランタの次に向かったのがノースカロライナ州にあるWBCBLのチームCarolina Lady Rushのトライアウトです。ここでのコーチの評価はアトランタと打って変わって高いものでした。「すごいやつが来た」とすぐに採用が決まり、結局、留学先だったウエスト・バージニア大学に在籍したのは1年足らずでしたが、ノースカロライナでは学生とプロ選手の両立を4年間続けました。コミュニティーカレッジで健康科学を学び、スポーツ医学とリハビリテーション、スポーツコーチングとマネジメントの資格を取得しました。慣れない英語での国家資格の取得はキツく、ペンだこができるまで必死に勉強したそうです。

シカゴへ 

ノースカロライナのLady Rushの後、再びトライアウトを経てWABAのチームChicago Steamに移籍が決まりシカゴへと向かいました。シカゴは尊敬する「バスケの神様」マイケル・ジョーダン(元シカゴブルズ選手)が活躍した街です。2021年にはChicago Breezeと契約しました。経験を積んだ淀野さんの前には新たな人生への扉が待っていました。ジムのコートに集まったバスケ好きがカジュアルにプレーする「ピックアップゲーム」での夫との出会い、出産、そして起業です。

起業、日本の女子バスケ界に新風を

シカゴでプロ生活を続けるなか、日本の女子バスケ界は世界でもトップクラスで対等にやり合っていける、世界の強豪に負けない事を証明したいという思いに至ります。世界で戦うことを目指すアスリートの支えになりたいと「ATO International Sports  Management Group」を立ち上げたのです。今年5月には2022年に続いて2回目の「Bridge the Gap」(架け橋となる)というイベントを開催しました。海外でプロとして活動したい、またバスケを通じてキャリアアップを図りたい選手を対象に、本場のコーチによる指導や米独立プロリーグGWBA(Global Women Basketball Association)と提携し日米交流イベントを実施しました。

写真:Bridge the Gapで笑顔をみせる選手たち

このイベントの開催には多額なコストがかかりますが、選手・スタッフへの負担は食事費のみだそうです。渡航費や合宿先の費用などはATOが中心となり、スポンサーを募って賄います。淀野さんはこのイベント中は食べる時間もないほど忙しく、毎回5-8キロ痩せるといいます。なぜそこまで?と思ってしまうのですが、淀野さんは東京オリンピックで銀メダルを取った日本の女子バスケ選手は海外でもっと活躍できると信じています。ただ、日本は欧米と比べて選手の自由度や企業側の海外挑戦に対する柔軟なサポートがまだ浸透しておらず、海外への移籍が難しいのが実情です。また、英語を十分に話せず海外事情に疎い選手が、海外のエージェントなどに「ぼられる」ことも多く、海外慣れをしていないことから起きる障害が多々あります。

日本の選手の移籍が欧米並みにもっと自由になれば、海外で学んだ選手が再び日本に逆移籍して学んだ知識を日本のレベル向上に生かすことができます。淀野さんは時間をかけて、その道筋を開こうとしているようにみえます。

次世代を育てる

次世代プレーヤーの育成にも余念がありません。シカゴ北郊外ロンググローブにある自宅を改造したコートで日本人の子供たちを集めてバスケ教室を開いています。日本の教え方は「ミスをするな!」ですが、ここでは「ミスを怖がるな」と教えます。生徒がボールを両足の間をくぐらせてパス、といった派手なプレーをすると日本のコーチは叱りますが、淀野さんは「格好いいよ!」とほめます。伸び伸びとプレーさせることで才能が開くといいます。

写真:バスケ教室に集まった生徒たちと

人生で一番つらかった高校時代

今までで最もつらかった経験は何ですか?と聞くと以外な答えが返ってきました。

言葉が話せない孤独感をあじわった米国での生活かと思いきや、高校時代のバスケ部の日常でした。今では笑い話です、と前置きして話す当時の模様は想像を絶するものでした。コーチは世間体など全く気にせずバスケ一筋、常にまっすぐ生徒と向き合う情熱タイプ。罵声、体罰は当たり前、毎日練習前は不安と緊張でトイレに行っては吐く毎日でした。チームメイトと遺言書を書いたこともありましたし、急性胃腸炎で何度も病院にお世話になりました。コーチと面と向かって話すことが怖くて声も出ない、 恐怖と常に生きていました。

そんな時、唯一の心の救いが過去のバスケを通しての楽しい思い出でした。あんなに好きだったバスケットが、ここで嫌いになってたまるか、やめてたまるかと自分に何度も何度も言い聞かせていたのを今でも覚えていると言います。それでも試合でコーチの姿が見えると安心する頼りになる存在でした。緊張している時にその堂々とした姿を見ると落ち着きさえも感じました。「メンタルは相当鍛えられましたね。あの時の辛さに比べたら、アメリカ生活のどんなことも我慢できました」。

そんなに怖かったコーチですがバスケへの真摯な向き合い方を教えてくれた人。指導者という同じ立場になった今「スパルタ指導、メンタル強化について、私なりにしっかりと答えが出ています」とまっすぐな目線で話します。厳しすぎるくらいの教育を経験できたおかげで、良い面と悪い面のどちらも見えました。反面教師とまではいきませんが、良い面だけを自分なりに取り入れ「好きこそ物の上手なれ」の精神を大事にするポジティブなアドバイスを主流とした指導法にたどり着きました。バスケ教室で教える子供達にはそれを伝える努力をしています。

キャリアは自分が輝ける場所を

最後にこれからキャリアアップを図ろうとする人たちへのアドバイスを聞くと「妥協しないで、自分の情熱が輝く場所を追求すること」との答えが返ってきました。例えば就職のときは「他に言われて」、「お金がいい」、「会社のブランド」を理由に選ぶな、と言います。やりがいを追求すれば、お金はついてくる、時間はかかってもあきらめないで欲しい、と自分を信じて進むことを勧めます。

プロ選手を卒業した今も淀野さんの挑戦も止みません。日本のバスケ界のレベルアップにはコーチ陣の改善が必要と、米国でコーチングを学ぶプログラムの導入を検討しています。今回で5回目になるバスケ留学にも力を入れ、子供たちが伸び伸びプレーしプロになる手助けをします。将来は海外の選手を日本のリーグに移籍させる逆輸入の流れも作りたいと夢は膨らみます。

昔ホストファミリーに「アメリカン・ドリームはあるけどジャパニーズ・ドリームという言葉はないね」と言われたそうです。自分のやりたいことが追求できるアメリカで、淀野さんの旅が続きます。

関連サイト
ATO International Sports Management LLC

 

 

 

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